レディーメード Ready-made:
レディーメード(ready-made)と言っても、オーダーメード(order-made)やプレタ・ポルテ(prêt-à-porter)に対する「既製品」という意味の言葉ではありません。デュシャンが1913年(大正2年)に制作したバイセクル・ウィールが、レディーメードの最初の作品と言われています。 しかし制作当時は、レディーメードの持つ新しい芸術に対する観念はまだ確立されていませんでした。
この作品にデュシャンは、「暖炉の火を眺めるのが好きで、それはゆれる炎がダンスをしている様に見えるから」であったと覚えている、そしてその見飽きない美、炎のダンスを、回る車輪のスポークが光を反射して踊っている処に見いだしたのだと思います。 丁度100年前の事です。
レディーメードの作品は、最初のキネティック・アート(Kinetic Art)、動く彫刻とも言われています。 キネティック・アートの代表は、アレクサンダー・カルダー(Alexander Calder)の作品でしょう、そしてこの動きを伴う作品にモービル(Mobile)と言う名前を付けたのが、マルセル・デュシャンです。
このキネティック・アートの観念は、後の空間全体が作品のインスタレーション・アート(Installation art)、そしてオブジェ(仏:Objet)や環境芸術と言った分野に広がって行きます。
またレディーメードの作品は、最初のアサンブラージ(Assmblage)と言われることもあります。 これはコラージュやパピエ・コレを立体的にしたようなもので、貼り付け、寄せ集め、積み上げ、結びつけなどのテクニックの立体作品です。 テキサス生まれのロバート・ローシェンバーグ(Robert Rauschemberg)の作品がよく知られています。
では、このレディーメードの持つ新しい芸術的観念とは、いったいどんなものなのでしょう?
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晩期旧石器時代(約35,000年程前)のヨーロッパでは、芸術という観念はなくても絵画だけでなく彫刻も始まっていたのではないかと考えられています。 動物や女性などの彫刻も見つかっていますが、その技術はきわめて高く、白人に乗っ取られる前のアメリカ・インデアンの文化レベルに近いものだったと思います。 彼らにとって動物や家畜は生活していく上で最も重要で大切なものだったのではないかと考えられます。
レディーメードの説明に絵画の歴史から始める訳ではありませんが、絵を描くという行為は、いったいどの様にして始まったのでしょうか? スペイン、アルタミラの洞窟の絵がよく引き合いに出されます、残念ながら壁画として紹介されていますが、アルタミラ(Altamira)は、スペイン語でhigh views'という意味だそうで、正確には「天井画」と言った方が良かったのかもしれません。
単に壁に絵を描くのと天井に描く行為では技術的に格段の差があります、何故わざわざ手間のかかる天井を選んだのでしょう? 当時は宗教的な自然信仰と言うよりは呪術的なものでしょうが、自然に対する驚異や尊厳のような感情は、現代人と似たようなレベル、と言うかもっと強く感じていたと思われます。
そして洞窟は現在の教会のようなものだったのではないかと思います。 教会の天井画が描かれたと同じ理由で、こう言った洞窟の天井画が画かれたのでしょう。 つまり、無意識のなかにも絵画は描いた人が精神的に重要だと考えている事を描いたのではないでしょうか。 そして一種の特別な空間、大切で神聖な聖域を創りだす役割をはたしていたのだと思います。 こう言った絵画は、後の宗教画として発展していったのでしょう。
次にパネル・ペインティング(Panel Painting)の絵を見てみましょう。 このタイプの絵は、マミー・ポートレイト(Fayum Mummy Portrait)がよく知られています。 この絵を見てわかるように現代のポートレイト絵画に比べて表現方法の違いは、殆どありません。
この絵が描かれたのはBC1世紀からAD2世紀頃のことです、それ以来顔料や筆の進歩、板からキャンヴァスにと言った技術的進歩はありましたが、表現方法の進歩はゆっくりと変化してさほど顕著ではありませんでした。
西暦1000年を機に教会堂の復興が盛んになった西ヨーロッパは、素朴な美術様式が発展し、文字の読めない人々への信仰心を高める役割をしたのでしょう。 その後より自然な人体表現などがされるようになり専門の画家が職業としてうまれて、教会にはステンドグラスなどが使われるようになります。
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絵画、芸術の歴史は、ルネサンスを経て近代史に向かいます。 14~5世紀前後にイタリアで始まったルネサンスは、熟成した完成度の高い芸術作品を数多く輩出し、後の文化に大きな影響を与えました。 その代表的作品を選んでみました。
サンドロ・ボッティチェッリ: Sandro Botticelli (1445? - 1510)
ヴィーナスの誕生、(ウフィツィ美術館):The Birth of Venus, (1486). Uffizi, Florence.
レオナルド・ダ・ヴィンチ: Leonardo da Vinci, (1452 - 1519)
モナ・リサ、(ルーブル美術館): Mona Lisa (1503 - 1505), Louvre, Paris.
ラファエロ・サンティ:(Raffaello Santi, 1483 - 1520)
ベルヴェーデルの聖母:The Madonna of the Meadow, (1506).Kunsthistorisches Museum, Wien.
ミケランジェロ・ブオナローティ:(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni, 1475 - 1564)
ダビデ像:The Statue of David (1501 - 1504)
ミケランジェロの名前はミカエル(Michele)と天使(angelo)を併せたものだそうです。
アダムの創造、(システィーナ礼拝堂の天井画):The Creation of Adam, (1508-1512) Sistine Chapel
今回はレディーメードの解説の一部として絵画、芸術の流れを追っているので、その歴史を詳細にみている訳ではありません。 それでもここでチョット余談を入れないと退屈な美術の歴史になってしまいそうです。
この時期の説明に{ミケランジェロに代表される盛期ルネサンスの成果は圧倒的であり、芸術は頂点を極め、今や完成されたと考えられた。ミケランジェロの弟子ヴァザーリはミケランジェロの「手法(マニエラ maniera)を高度の芸術的手法と考え、マニエラを知らない過去の作家に対して、現在の作家が優れていると説いた。}とあります。
そして学問・科学が発達したルネサンス後期、美術では遠近法、油彩画などの技法が確立され、その影響がイタリアを中心にマニエリスム (Manierismo)と呼ばれる美術的動きになりました。 しかしマニエリスムは、やがて似た様な退屈な作品を多く出し、現在使われている言葉「マンネリ」の元になったそうです。
16世紀後半、そのマニエリスム時代の画家の一人として有名なのが、クレタ島出身のエル・グレコ(1541 - 1614)です。 岡山の文化人で、エル・グレコの名前を知らない人はいないでしょう、倉敷市の大原美術館に有名なエル・グレコの受胎告知があるからです。
オリンピックにフリースタイルとグレコローマンスタイルのレスリングの種目がありますが、 ここで言うグレコはギリシャ人、ローマンはローマ人のことです。 そして画家エル・グレコのグレコももちろんギリシャ人の意味で、エルは男性冠詞です。 そうなんです、エル・グレコはギリシャ人男性という名なのです。
英語で発音しにくい言葉に出くわすと、ギリシャ語みたいだとよく言います、何となく言いにくい言葉の代名詞のようになっているのがギリシャ語です。 エル・グレコの本名は、ドメニコス・セオトコポゥラス(Δομήνικος Θεοτοκόπουλος、ラテン文字転写:Doménikos Theotokópoulos)です。
どうしてエル・グレコが定着したか、何となくわかる気もします。 エル・グレコは、自分の絵のサインは本名でしていたそうです、当然ですよね、まさかギリシャ男性とは書けないでしょう。
1930年(昭和5年)倉敷に西洋美術館を設立した大原孫三郎(1880 - 1943)の地域社会への貢献、影響は大変大きなものでした。 国吉康雄の回顧展翻訳で紹介したニューヨークのメトロポリタン・ミュージアムの設立1929年と比べてみれば、いかに先進的かつ進歩的考えで文化を大切にしたかわかります。
その大原孫三郎と小島虎次郎(1881 - 1929)のエピソードは、良く知られていますが、一枚の絵画との出会いとは全くそんなものかなと感じさせられます。 人との出会い、本との出会い、ブログとの出会い、不思議と自然な巡り合わせのように思います。
本題に戻りましょう。
ルネサンスその後、バロック、ロココと続き近代へと移って行きます。
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文化はソフト的な思考とハード的な技術の両面が影響しあっていると思います、ルネサンス期の羅針盤、火薬、活版印刷など当時の新しいテクノロジーは、アート以上に人々の生活や考え方に大きな影響を与えたでしょう、文化・文明(Culture・Civilization)の大きな進歩です。
エル・グレコは、マンネリ化の語源になったマニエリスムの画家と紹介しました。 いくら熟成完成されたルネサンス芸術と言ってもマニュアル通りでは、当然つまらないものしか出来ませんからマニエリストのアーティストも色々工夫をしてマンネリ化の脱却をはかっています。
無理に不均衡な構図や遠近法にしたり、エル・グレコの「第五の封印」のように体を伸ばしたりねじれたようにデフォルメしたのです。 それ程顕著ではありませんが、後の抽象画的発想に近いものがあるような気がします。
エル・グレコの作品は、85%が宗教画で残り10%が肖像画だそうです、そして数少ない風景画が「トレドの風景」です。 この時代は、まだ風景や静物をテーマに描く事は、少なく珍しかったのだと思います。彼はルネサンス後期の画家でバロック芸術に影響を与えたと言われています。
現実には、年表の上に線を引くようにいきませんが、バロックの時代に入ると風景画、風俗画、静物画などが多く描かれ始めたのです。 ディエゴ・ベラスケスはスペイン絵画の黄金時代を、ルーベンス、レンブラント、フェルメールらはオランダ絵画の黄金時代を築きました。
バロック様式と聞くと何故かバッハを思い出しますが、フランスのヴェルサイユ宮殿はバロック建築の代表的一つです、バロックは分類上、歴史家が勝手に後から付けた名前です。
この時期には完成されたルネサンスを超えようとして、絵画の表現方法は光と影の使い方がより強烈に劇的になっていきます。 レンブラントを代表に当時多くの画家が光に特別な注意を払いドラマティックな絵を描いたのは、そういった背景があったように思われます。
そして17世紀以降、文化・芸術の中心はイタリアからフランスに移り、18世紀にルイ15世の頃、円熟した貴族文化を背景に軽快で享楽的なロココ様式が流行しました。 手のこんだ建築装飾がこの様式の代表的なスタイルです。
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各時代によってその時代のアーティスト達が、時代の変化と共に先人から学び先人を超えようとする様子が、絵画芸術の流れを見ていくとよく分かります。 それが進歩の形なのかもしれません。
近代絵画は、新古典主義、ロマン主義、バルビゾン派、写実自然主義、そして印象主義と社会、文化の流れと共に変化して行きます。 人々の意識の改革、進歩といってもよいかもしれません。
1527年のイタリアの略奪、16世紀の宗教革命と言った社会情勢は、絵画芸術にやはり影響を与えた時代の背景のように思われます。 1789年のフランス革命で貴族社会からナポレオンの軍事権力による政治経済の統治に移行していきます。 ロココの時代に少々やり過ぎたのでしょうか、それとも当時のポンペイ壁画発掘の影響もあったかもしれません、この頃にギリシャ・ローマの美術芸術を再評価しようと新古典主義が成立します。
やはりこの時代になって来ると絵画の画質が、かなり洗練されて来ているのが伺えます。 絵の具や筆の改良もあったのでしょう、そして精度の高い明確さを増した技法で、質の高い作品が多く描かれています。 ルネサンスを昔のカラーTVの画像とすると、新古典主義はまるでハイデフィニションTVの画質のようです。
ロマン主義(Romanticism)は、18C末から19C半に新古典主義の規律の強い堅さに対し角の取れた優しさを求めたのでしょうか、完璧で雑音のないディジタルCDに対してアナログLPの方が生の音に近くてよいと言う意見が、ディジタル音楽の出初めの頃よく耳にしましたが、それに似ているようです。 HD画像の新古典派の絵は、硬すぎて情緒がない、もう少しロマンのある絵の方が、夢があってよいと考えるアーティスツが出てきます。 絵画の変化は、一つの流れが一世を風靡(ふうび)すると、そのスタイルが飽きられると言うか、その反動の様な方向に動いていくのが伺えます。
ロマン派の絵画には、今までになかった個人の感情、そして夢や愛などの形のないものを表現したいという試みなどが見られ、新しく精神的なもの、感情的なものを表現しようと言う思いが伝わって来ます。 宗教的でなく自然に人の内面を表現し始めたことは、絵画の内容が濃くなって来たと言えるでしょう。 同じ絵画でも観ている人々の心に深く訴える力のある魅力的な作品が描かれるようになったと思います。
バルビゾン派(19C前半頃)は、ロマン主義の蔓延に対して起こったと言えるかもしれません。 フランスのフォンテーヌブローの森、その近くにあるバルビゾン村にアーティストが集まっていました。
1824年、ジョン・コンスタンブルのサロン・デ・パリの展覧会の影響で、バルビゾンに集まった若い画家達が、形式を捨て自然から直接インスピレーションを求めるようになりました。
国吉康雄達ニューヨークのアートステューデントリーグの仲間が、当時ウッドストックに集まったのにチョット似ているような感じもします。
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今回のレディーメードの記事のおかげで、キャスパー・フリードリッチに出会えたことは大変な収穫でした。 温故知新、故きを温ねて新しきを知ると言われますが、多くのアーティスツは彼の作品から学ぶ事は沢山あると思います。
ここまで絵画の流れを見てくると、もう次の動きが予測出来そうです。 フリードリッチの作品を例にしてみましょう、彼の風景画を見て、少し矛盾する表現ですが繊細でいて雄大、斬新でいてアカデミック、絵の中にドラマがありいつまでも見飽きない優れた作品です。 完璧で非の打ち所の無い絵の様に思われます、しかし描かれている事物がリアルではないと言う主張が出て来るのです。
メルヘン、寓話の世界と現実にある本物は違うのだと言う意見なのです。 美化理想化でなく自然体をあるがまま描写しようと言う動きが、ロマン主義的な作品が蔓延(まんえん)してくると出てきます、クールベの1855年「リアリスム館」で使われたことから、この絵画の流れをリアリズムと呼んでいます。
英語でリアル・ワーキング・ピープルと言えば、実際に毎日汗を出して働いている人、本当に存在する人を意味します。 今の日本では、リアルの意味を子供でも知っていますが、このリアルのリアリズムは何故か「写実主義」と訳されています。 前にアルタミラの「壁画」は、「天井画」にするべきだったと書きましたが、この「写実主義」は大変誤解を招きやすく不的確な言葉の使い方だと思います。
前に紹介した新古典主義の画家アングルの「王座のナポレオン」と写実主義のミレー、クールベの働く人々の絵を比べると、写実的に見えるのは新古典主義の絵で、それに比べてそれ程写実的に見えないのが写実主義の絵画です。 言葉の意味と目で見た感覚がずれてしまうので、理解出来なくなるのです。
何故なら、この写実という言葉自体が微妙だからです。 古来から絵を描く事自体が、写実だったからで、この限られた時期に限って写実主義と呼ぶのはかなり無理があるようです。 そもそも、誰がリアリズムを写実主義にしてしまったか知りませんが、ここではリアリズムはリアル主義にします。
エル・グレコの処で紹介しましたがリアル主義以前、最も多く描かれたのは宗教画で次に肖像画でした、やっと風景画や静物画が描かれ始めたのは新古典主義以降でした。
一枚の絵をプロデュースするには、絵の具やキャンヴァスの材料費と画家の人件費を出さないと出来ません、それが出来たのは宗教関係者、貴族、一部の金持ちと限られていました、その枠が広がって来た事はリアル主義の台頭と無関係とは言えないでしょう。
クールベの有名な「石割人夫」で最も注目する点は、テーマが労働者だと言うことでしょう。 リアル主義の作家達は、働く人々の中、日常の中に絵に描き込みたい美やテーマを見いだしたのでした。
自然のなかで無心に働く労働者の動きや形の美しさ、汗の匂いや砂埃のあるリアルさ、労働への賛美、そういった肌で感じる感覚を絵画で表現したと感じられます。
この時代のリアル主義の背景には、新しい技術の開発や新しい社会観念があります。 1840年頃に発明されたチューブ入り絵の具は、屋外での制作を可能にしました。 そして今ではあたり前ですが顔料の調合知識がなくて絵の具を作れなかった人でも絵が描けるようになるのです。 なかでも19世紀前半の写真の発明、そして急速な進歩は絵画芸術のみならず社会や文化にも大きな影響を与えました。
「国吉康雄回顧展カタログ翻訳」のフロクで紹介したドーミエが描いたナダールの空中写真の絵を覚えていますか? フォトチャンネルのコローやミレーの最後にあるアーティストの白黒写真はナダールが写したものです。 この時代の肖像画を職業にしていた画家達の危機感も感じられそうです。
パリのナダールのスタジオの写真を覚えていますか? あの建物で、最初の「印象派展」が開かれたと言われています。 この頃は文化も社会も大きく動いている時代でした。
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絵画は好みの問題でどうしても好き嫌いがありますね、でも印象派の画家の作品は日本人のみならず世界中で人気があります、なぜでしょう? それは印象派の画家が、人の心に通じる絵を描き始めたからです。 そのおかげで今まで頭で見ていた絵画が、ハートで感じられる絵になって来たのです。
この頃の画家は、今までの時代の作家達とは絵を描く観念が違います、わかりやすく言うと絵を描く理由と目的が違うので、自ずと制作された作品も違ってくるのです。 バルビゾン派、印象派の時代になると、印象派の作品を見て「ワァーいいなぁー」と感じてしまうあの感覚、素晴らしい景色を見て「ステキ」と感じる感覚を初めて絵画の中に描き込もうとしたのです。
絵画は、余り詳細に描きすぎるとイラストになってしまい絵としてはつまらないものに成るのです。 そんな細かい事を描くよりは、その場の雰囲気、ムードを描き込むことの方が重要ではないかと言う考え方です。
今風に言えば、イメージと言う言葉が近いかもしれません。 単に人の外観をただ描くのではなく、内面的なものが感じられるイメージを描き上げようと試みたのです。
自然の中にインスピレーションを求め存在感、実存感のあるリアル主義も自然主義もいいけれど、もっと大事なのは人の感情や印象で、それを重要視した方が絵画としてより意味深いものになると言う考え方が出てきます、印象主義です。
印象主義で絵画のテーマが目に見えない雰囲気や印象の表現に移った事、この点は意外と指摘されていませんが、画期的な事だったと思います。
絵画は長い間、目に見えるものや頭の中で考えたこと両方のイメージを描いてきました。
ロマン主義では、夢などの目に見えないものも描いています。 それ以前の宗教画も同様に、厳密に言えば画家の想像で描いていたので抽象画です。
ミケランジェロの「アダムの創造」も実際にあったかのように写実的に描かれていますが、厳密に言えば画家が頭の中で作り上げた抽象画です。 印象主義と宗教画の抽象は、目的も意味も違います。 宗教画の抽象は実際には無いものをあるように表現しようとしていますが、印象派の抽象的表現は実際に有る感情や印象を表現しようとしたことです。
誰もが感じる普遍的な美しさや驚き感動する心、水面に輝き踊る日の光、その印象や目に見えないけれど肌で感じる雰囲気を絵の中に入れて表現しょうとしたのです。 そして受けた印象を表現するのみならず、絵画によってみる人に新しい印象を与えようともし始めたのです。
では目に見えないものを、どの様にして表現しようとしたのでしょう?
これは今までにないことですから誰も方法は知りません、それぞれ試行錯誤を始めた訳です。 おかげで表現方法が自由になったので、発想や表現に既成の制約もきかなくなり、顔の中にブルーがあって、水面や空がブルーでなくても受け入れられるようになって来たのです。
全く新しいこのチャレンジの時期、混沌としていたこの期間が、印象主義の時代と言ってもよいでしょう。 ですから印象主義や時代を特定できる特別なスタイルはありません。 しいてあげれば、表現方法が自由になったので、絵が一般的に明るくなりました、そしてユニークなアングルと複雑になった構図かもしれません。
形や詳細よりも全体のイメージの持つ雰囲気の表現が重視され、時代の流れと相まって筆の使い方や動きがダイナミックで力強くなって来たのです。 色も明るくなりキャンヴァスの上に重く塗っていた技法からは考えられないほど薄くサァーと塗った技法も使われました。
処でアーティストは、駆け出しの頃、働き盛りの壮年期、そして熟年期、体力気力も弱くなった老年期と異なったステージがあります、それぞれの作品は、作風や完成度それぞれ違うでしょう、なのにアーティストを一つの時代や主義に当てはめてレーベルを付けようとすると例外が出てきて旨くいきません。
印象主義の後は、後期印象主義と呼ばれるのですが、余り主義の名前にこだわらないで、一応の目安程度でよいと思います。 このページに登場したアーティスツは、バルビゾン派、印象主義、後期印象主義、点描主義と区別しないで、アーティストの生年月日順にしました。
ジャコブ・カミーユ・ピサロ:Jacob Camille Pissarro, (1830年7月10日 - 1903年11月13日)
エドゥアール・マネ:Édouard Manet, (1832年1月23日 - 1883年4月30日)
エドガー・ドガ:Edgar Degas (1834年7月19日 - 1917年9月27日)
アルフレッド・シスレー:Alfred Sisley, (1839年10月30日 - 1899年1月29日)
ポール・セザンヌ:Paul Cézanne、(1839年1月19日 - 1906年10月22日)
クロード・モネ:Claude Monet, (1840年11月14日 - 1926年12月5日
ピエール=オーギュスト・ルノワール:Pierre-Auguste Renoir(1841年2月 - 1919年12月3日)
ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン:Eugène Henri Paul Gauguin (1848年 - 1903年)
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ:Vincent van Gogh、( 1853年3月30日 - 1890年7月29日)
ジョルジュ・スーラ:Georges Seurat 、(1859年12月2日 - 1891年3月29日
ポール・ヴィクトール・ジュール・シニャック:Paul Victor Jules Signac, (1863年- 1935年
そのうち印象を与える元の色をもっと純粋にしなければならないと考えた画家も出てきます。 点描主義(Pointillism)のスーラやシャニヤックです。 点描のテクニックを現在でも利用する作家は多いでしょう、誰が描いてもそこそこの面白い絵になるので受けるのかもしれません。
点描による独特の雰囲気を持つ絵は、一見魅力的ですが、残念ながら技法に拘(こだわ)りすぎと言うか頼りすぎの感があります。
現在のプリンターこそ究極の点描画でしょう。 まさかロイ・リヒテンシュタインのような作家が出て来るとはスーラも思いもよらなかったでしょうね。
その混迷の中で、色々の表現方法の試みがなされます。 キュービズム、フォービズム、シュールレアリズム、ダダイズムと新しい表現方法の試みとして色々なスタイルの絵画が出てきます。
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レディーメードの説明のために絵画芸術の歴史から始め、予定ではもっと大雑把に駆け抜けたかったのですが、一人でも多くのアーティストを載せたくて欲張ったので、まるで美術史のようです。
しかし私は、美術史の専門家ではありません、ただのアーティスト(芸術家)です。
どの様に書けば私の芸術論、美術史観が旨く伝わるか、どの様に説明すれば解りやすいかに重点を置きました。 勿論、長い文章になると誰も読まないし、余り絵画の知識がなく読んでも解ってくれるようにしたかったのです。
先回、印象派と後期印象派のように細かくわける必要はないと思うと書きましたが、美術史上では、やはり印象派、新印象派、後期印象派とあり、それぞれ技法(筆触分割、色彩分割)や色彩論や光学理論の違いなどが分類上あるようです。
詳しく絵画の歴史を知りたい方、アーティストの個人的な事情や作品の背景などに興味のある方は、今回の記事をリサーチしていて見つかったサイト「サルヴァスタイル美術館」、絵画の情報が詳しく記載されていますので参考にして下さい。
それでは本題にもどります。 印象派の時代、当時の背景をパリの万博をとおして追ってみましょう。
1851年のロンドン万国博覧会に対向して1855年にパリでナポレオン3世のもと、初めての国際展覧会が開かれ、ロンドンの水晶宮を上回るべく産業宮(Palais de l'Industrie)が建設されました。
1867年のパリ万国博覧会(Exposition Universelle de Paris 1867)は、日本が初めて参加した国際博覧会で、出展された浮世絵や工芸品が印象派の画家に大きな影響を与えたことは良く知られています。
三回目のパリ万博(Expo 1878)では、アメリカから電話機、蓄音機や自動車が出品され産業化の時代を予測している様でした。 また当時のパリのみならずヨーロッパでは、ジャポニスム(Japonisme)が、工芸品やポスターなど印象派後のアール・ヌーボーの作品にも影響したのがみえます。
フランス革命(バスティーユ襲撃)100周年の1889年(明治22年)に四回目のパリ万博(Expo 1889)が、開かれました。 この時に有名なエッフェル塔が建設され、短い距離ですが鉄道も実用化されます。
そして五回目、1900年のパリ万博, (Expo 1900)では、エッフェル塔にエレベーターが設置されました。 このおかげでニューヨークの摩天楼の建設も実用的になるのです。 丁度、ロンドンへ留学途上の夏目漱石が、会場に立ち寄っています。
この頃には産業の発達で交通機関の進歩と共に人の移動が増し、世界が小さくなり始めた時代です。
花の都、芸術の都パリへ、多くのアーティスト達が集まったのです。
美術芸術の大きな流れは、19世紀末のアール・ヌーボーから第一次世界大戦、そしてアート・デコーの動きになります。 細かく見ればフォーヴィズム、表現主義、キュビズム、抽象芸術、構成主義、バウハウス、ダダ、シュールレアリズムなどで過渡期の混迷した状況が感じられます。
当時活躍したアーティストは、勿論印象派以外にも多くいます。 先回と同様に、このページで紹介したアーティストは生まれた順にしました、選んだ作品の制作年代は前後しています。
オディロン・ルドン:Odilon Redon, 1840年4月20日- 1916年7月6日
ジョヴァンニ・セガンティーニ:Giovanni Segantini、(1858年1月15日 - 1899年9月28日)
アルフォンス・マリア・ミュシャ:Alfons Maria Mucha, (1860年7月24日 - 1939年7月14日)
グスタフ・クリムト:Gustav Klimt, (1862年7月14日 - 1918年2月6日)
エドヴァルド・ムンク:Edvard Munch, (1863年12月12日 - 1944年1月23日)
トゥルーズ=ロートレック:Henri de Toulouse-Lautrec(1864年11月24日 - 1901年9月9日)
オーブリー・ビアズリー:Aubrey Vincent Beardsley, (1872年8月21日 - 1898年3月16日)
絵画の流れが世紀末の時期をへて20世紀初頭へと移っていきます。 いよいよバイセクル・ウィールが制作された1913年(大正2年)に近づいて来ました。
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前回は、当時11年ごとに開かれたパリ万博を追って技術や産業の発展と社会への影響をみてきました。 技術革新のおかげで食料生産が飛躍的に伸び、人口増加につながります。 そして労働者階級、中流階級の成長で消費社会の定着がありました。
今回は同時期の美術芸術の流れの概要をみてみましょう。 19世紀末から20世紀初頭の文化、芸術は、仏でアール・ヌーボー(Art Nouveru)、英でアーツ・アンド・クラフト(Art & Crafts)、独でユーゲント・シュティール(Jugendstil)と言った動きがありました。
アール・ヌーボーは、日本語で表すと「新出芸術」と言った感じでしょうか、従来の様式を離れ新しく出てきた芸術の流れで、建造物、工業品やポスターなどのデザインに活用されました。 植物的な曲線を多用した装飾で、よく知られています。
アール・ヌーボーの動きで重要な点は、鉄やガラスを使った工芸品が新しく制作され、芸術の一般化が始まったことだと思います。 つまりガラス製の花瓶や家具、調度品,そして壁紙などの中に芸術が加味されたのです。
ヨーロッパを中心にアール・ヌーボーの動きが大勢を占めると、今まで見てきた絵画の歴史と同様、飽きられて新しい動きが出てきます。 自由曲線の過剰な装飾を抑えたアート・デコー(Art Deco)の登場です。 生産技術の進歩で自然の造形美から機能を重視した人口の造形美が加わったのです。
アート・デコーは、1910年代半ばから30年代にかけて、モダン・デザインの出現によって出来た、新しいデコレーション・スタイルの美術工芸の動きになりました。 アール・ヌーボーの反動で簡素化が進み幾何学的模様や機能を生かしたデザインに移っていきます。 そして美術工芸の大衆化、商業、工業デザインの普及です。
1925年に開かれたパリ万国装飾美術博覧会、(Exposition Internationale des Arts Decoratifs et Industriels modernes)は、アール・デコ博とも呼ばれ、アート・デコーの名前の元になりました。
しかしアート・デコーの流れの中心は、産業の発展と共にパリからニューヨークに移るのです。
量産された工芸品は、新しい芸術品として当時の先進国の都市で同時に大量に消費され始めるのです。
そういった中、絵画美術の動きは、印象主義以来古い考え方や規制から解放され、新しい観念の模索、変化で混迷の過渡期を迎えていました。 社会の変化と共に変わっていく、20世紀初頭の近代美術(Modern Art)の流れをみてみましょう。
印象派の色使いや点描画の色彩で、色の使い方がそれぞれ工夫されてきましたが、もっとより自由に感情を表現するために色を使おうと言う考えが出てきました、フォーヴィズム(Fauvisme)です。
フォーヴィズムは野獣主義と訳されていますが、自然に見える色だけでは満足出来ず、アーティストが自由に自分の色を使い始め、今までにない強烈な色の対比から強い印象の感情豊かな絵画を描いたと言えるでしょう。 この鮮烈な色使い、まさに野獣のような激しさと力強さが特徴です。
一連の色彩の開放に続いて形態の解放の動きが出てきます。 ピカソやブラックが始めたと言われるキュービズム(Cubism)です。 今までの遠近法や透視図法にこだわらず、また多角的視点からのイメージを組み合わせて平面のキャンヴァス上により立体的感覚を描こうとしたのです。
同じ頃にカンディンスキーやモンドリアン等が始めた抽象絵画の動きも見逃せません。
こう言った新しい美術的観念の模索が続き、シュールレアリスム、そしてダダイズムと現代美術(Contemporary Art)の流れは動いて行きます。
1
アンリ・ルソー:Henri Julien Félix Rousseau, (1844年5月21日 - 1910年9月2日)
2
ワシリー・カンディンスキー:Wassily Kandinsky、(1866年12月4日- 1944年12月13日)露
3
アンリ・マティス:Henri Matisse, (1869年12月31日 - 1954年11月3日)仏
4
ジョルジュ・ルオー:Georges Rouault, (1871年5月27日 - 1958年2月13日)
5
ピエト・モンドリアン:Piet Mondrian、( 1872年3月7日 - 1944年2月1日)
6
フランシス・ピカビア:Francis-Marie Martinez Picabia, (1879年1月22日 - 1953年11月30日)
7
パウル・クレー:Paul Klee、(1879年12月18日 - 1940年6月29日)スイス
8
アンドレ・ドラン:Andre Derain, (1880年6月10日 - 1954年9月8日)仏
9
フェルナン・レジェ:Fernand Léger、(1881年2月4日-1955年8月17日)
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パブロ・ピカソ:Pablo Picasso、(1881年10月25日 - 1973年4月8日)スペイン
11
ジョルジュ・ブラック:Georges Braque, (1882年5月13日 - 1963年8月31日)仏
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モーリス・ユトリロ:Maurice Utrillo, (1883年12月26日 - 1955年11月5日)
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さあ、このレディーメードの持つ新しい芸術的観念とは、いったいどんなものなのでしょう?
ここでは、バイセクル・ウィールが制作された年、1913年の2月17日から3月15日までニューヨークで開かれた「国際現代美術展」(The International Exhibition of Modern Art)から始めましょう。 この大展覧会は別名、アーモリー・ショウ(Armory Show)としてもよく知られています。
ニューヨークとシカゴで開かれたこの展覧会は、歴史に残る大イベントとなり、当時のアメリカ美術界のみならず広く一般社会にも大きな影響を与えました。 そしてアメリカ芸術のモダニズムへの動きに大きな後押しとなったのでした。
マルセル・デュシャン、(階段を降りる裸婦像No.2): Nude Descending a Staircase, No. 2, (1912). Oil on canvas. 57 7/8" x 35 1/8". Philadelphia Museum of Art.
この展覧会にデュシャンが出品したのが、1912年に制作した「階段を降りる裸婦像No.2」でした。 この作品はアーモリー・ショウで最も話題になった作品になりました。 連続写真のイメージが連想される作品で、明らかに動きを絵画の中に取り入れようとしています、その表現方法は、フォーヴィズムでもキュービズムでもありませんでした。 もう一つ重要な点は、動きを取り入れたことで時間の流れまでも絵画の中に加えられた事でしょう。
マルセル・デュシャン,(ファウンティン): Alfred Stieglitz, Fountain, photograph of sculpture by Marcel Duchamp, 1917. (photo courtesy of: arthistory.about.com)
1917年のインディペンダント展で、レディーメーズの問題作である「ファウンティン」(Fountain,日本語では「泉」)を出品します。 この作品は展示されることなく唯一アルフレッド・スティグリッツが写した写真が残っているだけです。 しかしこの作品は、多くの複製が制作されています。
陶磁器の持つスベスベした地肌、ポーセレン(porcelain)の持つ光沢のある表面と便器の機能から来る局面や形態自体の芸術性をデュシャンは、みる人の前に作り出したのです。 そして置く位置を変えることによって新しい視点、つまり新しい認識を促したのです。 利休さんの「はてな」の茶碗より分かりやすいかもしれません。
「泉」は、よく20世紀の美術界に最も影響を与えた作品の一つと言われたりします。
アートは、アーティストが手で制作したものであるという既成概念に対して、そのものの持つ固有の美を認識して指摘するだけでアート(芸術)を制作したことになると言うアイデアです。 これによりデュシャンは、絵画芸術の枠を外しアートに対しての新しい考え方を開いたのです。 このことがレディーメードの持つ新しい芸術的観念は何かの答えとなるでしょう。
マルセル・デュシャン:L.H.O.O.Q. 1919 Rectified readymade: pencil on reproduction of da Vinci's Mona Lisa (19.7 x 12.4 cm) Private collection(photo courtesy of: arthistory.about.com)
1919年、複製のモナリサに髭を付けて「L.H.O.O.Q.」と名付け、いたずらっぽく意図的に当時としては不謹慎な作品を制作しています。 私はフランス語が解らないので引用します、タイトルを続けて読むと、「彼女の尻は熱い (Elle a chaud au cul、彼女は性的に興奮している)と同じ発音(エラショオキュー)になる」そうですが、パン(pun)の好きなデュシャンらしいタイトルです。
後にアメリカ・ダダの指導的役割を果たすことになったデュシャンは、ユーモアをも現代芸術の一部として取り込もうとしていたようです。 印象派のアーティスト達が感情を表現しようとしましたが、ユーモアまでは考えていなかったでしょう。 デュシャンは、ブラック・ユーモアにも言及しています。
マルセル・デュシャン、(パリの空気50cc)、: reproduction of 50 c.c. of Paris Air (1919), in Boîte-en-Valise 1935-41 (photo courtesy of: www.toutfait.com)
ユニークな形のガラス容器、雨粒にも似た魅力的な形と機能美の立体曲面、この中に閉じ込められているのは、パリの空気です。 それがどうしたとお考えの方も多いかと思いますが、目に見えない空気が、芸術作品の素材の一部として意識的に使われたのは、この作品が初めての事だったのです。
デュシャンは、パリの空気まで芸術にしてしまったのです。
この作品の元は、彼がアトリエ近くの薬局で見つけたアンプルで、今から約100年前に制作されたレディーメードの一つです。 彼は、この作品をアメリカにいる友人の為に作ったと語っています。 何と素晴らしいギフトでしょう。 余談ですが、人が一番幸せに感じるときは、誰かのことを想っている時だそうです。
マルセル・デュシャン、「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」:The Bride Stripped Bare by Her Bachelors, Even (The Large Glass) / La mariée mise à nue par ses célibataires, même (Le Grand Verre) 1915-1923、277.5 x 175.8 cm overall, Philadelphia Museum of Art。
「ラージグラス」は、マルセル・デュシャンの代表作とされています。 この作品に関しては、多くの書物や解説があります。 しかし余り指摘されていませんが、デュシャンはこの作品に関してバックグラウンドについて語っています。 みなさんは、この作品の背景をどう思いますか? 私は大変気に入っています。
1914年(大正3年)7月28日から1918年11月11日までの、第一次世界大戦の影響で、パリでは美術や芸術どころではありませんでした。 デュシャンは1915年にニューヨークに移ります。 その後もデュシャンの関心は動く物やその形に関して続いていました。
これ以外にも立体作品をいろいろ制作しています。 エロティシズムに満ちたものから不思議な感覚のものもあり、いろいろと考えさせられる作品が多いのも彼のアートの特長かもしれません。
マルセル・デュシャン:Female Fig Leaf (Feuille de vigne femelle)、1950, cast 1961
絵画芸術は、手で作り上げたもの、手で触れることが出来るものと言った意識があったのですが、デュシャンのバイセクル・ウィールを始めとする一連のレディーメードの作品によって、アート自体が目に見えなく、手に触れない観念であると言う考えを新しく開いていったことは大変有意義な事だったのです。
マルセル・デュシャン: Objet-dard (Dart-Object) 1951, cast 1962 Bronze object: 78 x 197 x 90 mm sculpture (photo courtesy of: www.tate.org.uk)
このことで絵画芸術の今まであった枠や規制がなくなり、全く新しいアイデアも受け入れられ絵画芸術の意識の上で飛躍的進歩につながったのです。
マルセル・デュシャン(フレッシュ・ウインドウ):Fresh Widow 1920, replica 1964 Mixed media object: 789 x 532 x 99 mm sculpture (photo courtesy of: www.tate.org.uk)
デュシャンは、今までにあった常識から一歩踏み込んで誰よりも深く絵画芸術を考えたアーティストと言えるかもしれません。
マルセル・デュシャン:Marcel Duchamp, (1887年7月28日 - 1968年10月2日)
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レディーメード(ready-made)と言っても、オーダーメード(order-made)やプレタ・ポルテ(prêt-à-porter)に対する「既製品」という意味の言葉ではありません。デュシャンが1913年(大正2年)に制作したバイセクル・ウィールが、レディーメードの最初の作品と言われています。 しかし制作当時は、レディーメードの持つ新しい芸術に対する観念はまだ確立されていませんでした。
この作品にデュシャンは、「暖炉の火を眺めるのが好きで、それはゆれる炎がダンスをしている様に見えるから」であったと覚えている、そしてその見飽きない美、炎のダンスを、回る車輪のスポークが光を反射して踊っている処に見いだしたのだと思います。 丁度100年前の事です。
レディーメードの作品は、最初のキネティック・アート(Kinetic Art)、動く彫刻とも言われています。 キネティック・アートの代表は、アレクサンダー・カルダー(Alexander Calder)の作品でしょう、そしてこの動きを伴う作品にモービル(Mobile)と言う名前を付けたのが、マルセル・デュシャンです。
このキネティック・アートの観念は、後の空間全体が作品のインスタレーション・アート(Installation art)、そしてオブジェ(仏:Objet)や環境芸術と言った分野に広がって行きます。
またレディーメードの作品は、最初のアサンブラージ(Assmblage)と言われることもあります。 これはコラージュやパピエ・コレを立体的にしたようなもので、貼り付け、寄せ集め、積み上げ、結びつけなどのテクニックの立体作品です。 テキサス生まれのロバート・ローシェンバーグ(Robert Rauschemberg)の作品がよく知られています。
では、このレディーメードの持つ新しい芸術的観念とは、いったいどんなものなのでしょう?
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晩期旧石器時代(約35,000年程前)のヨーロッパでは、芸術という観念はなくても絵画だけでなく彫刻も始まっていたのではないかと考えられています。 動物や女性などの彫刻も見つかっていますが、その技術はきわめて高く、白人に乗っ取られる前のアメリカ・インデアンの文化レベルに近いものだったと思います。 彼らにとって動物や家畜は生活していく上で最も重要で大切なものだったのではないかと考えられます。
レディーメードの説明に絵画の歴史から始める訳ではありませんが、絵を描くという行為は、いったいどの様にして始まったのでしょうか? スペイン、アルタミラの洞窟の絵がよく引き合いに出されます、残念ながら壁画として紹介されていますが、アルタミラ(Altamira)は、スペイン語でhigh views'という意味だそうで、正確には「天井画」と言った方が良かったのかもしれません。
単に壁に絵を描くのと天井に描く行為では技術的に格段の差があります、何故わざわざ手間のかかる天井を選んだのでしょう? 当時は宗教的な自然信仰と言うよりは呪術的なものでしょうが、自然に対する驚異や尊厳のような感情は、現代人と似たようなレベル、と言うかもっと強く感じていたと思われます。
そして洞窟は現在の教会のようなものだったのではないかと思います。 教会の天井画が描かれたと同じ理由で、こう言った洞窟の天井画が画かれたのでしょう。 つまり、無意識のなかにも絵画は描いた人が精神的に重要だと考えている事を描いたのではないでしょうか。 そして一種の特別な空間、大切で神聖な聖域を創りだす役割をはたしていたのだと思います。 こう言った絵画は、後の宗教画として発展していったのでしょう。
次にパネル・ペインティング(Panel Painting)の絵を見てみましょう。 このタイプの絵は、マミー・ポートレイト(Fayum Mummy Portrait)がよく知られています。 この絵を見てわかるように現代のポートレイト絵画に比べて表現方法の違いは、殆どありません。
この絵が描かれたのはBC1世紀からAD2世紀頃のことです、それ以来顔料や筆の進歩、板からキャンヴァスにと言った技術的進歩はありましたが、表現方法の進歩はゆっくりと変化してさほど顕著ではありませんでした。
西暦1000年を機に教会堂の復興が盛んになった西ヨーロッパは、素朴な美術様式が発展し、文字の読めない人々への信仰心を高める役割をしたのでしょう。 その後より自然な人体表現などがされるようになり専門の画家が職業としてうまれて、教会にはステンドグラスなどが使われるようになります。
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絵画、芸術の歴史は、ルネサンスを経て近代史に向かいます。 14~5世紀前後にイタリアで始まったルネサンスは、熟成した完成度の高い芸術作品を数多く輩出し、後の文化に大きな影響を与えました。 その代表的作品を選んでみました。
サンドロ・ボッティチェッリ: Sandro Botticelli (1445? - 1510)
ヴィーナスの誕生、(ウフィツィ美術館):The Birth of Venus, (1486). Uffizi, Florence.
レオナルド・ダ・ヴィンチ: Leonardo da Vinci, (1452 - 1519)
モナ・リサ、(ルーブル美術館): Mona Lisa (1503 - 1505), Louvre, Paris.
ラファエロ・サンティ:(Raffaello Santi, 1483 - 1520)
ベルヴェーデルの聖母:The Madonna of the Meadow, (1506).Kunsthistorisches Museum, Wien.
ミケランジェロ・ブオナローティ:(Michelangelo di Lodovico Buonarroti Simoni, 1475 - 1564)
ダビデ像:The Statue of David (1501 - 1504)
ミケランジェロの名前はミカエル(Michele)と天使(angelo)を併せたものだそうです。
アダムの創造、(システィーナ礼拝堂の天井画):The Creation of Adam, (1508-1512) Sistine Chapel
今回はレディーメードの解説の一部として絵画、芸術の流れを追っているので、その歴史を詳細にみている訳ではありません。 それでもここでチョット余談を入れないと退屈な美術の歴史になってしまいそうです。
この時期の説明に{ミケランジェロに代表される盛期ルネサンスの成果は圧倒的であり、芸術は頂点を極め、今や完成されたと考えられた。ミケランジェロの弟子ヴァザーリはミケランジェロの「手法(マニエラ maniera)を高度の芸術的手法と考え、マニエラを知らない過去の作家に対して、現在の作家が優れていると説いた。}とあります。
そして学問・科学が発達したルネサンス後期、美術では遠近法、油彩画などの技法が確立され、その影響がイタリアを中心にマニエリスム (Manierismo)と呼ばれる美術的動きになりました。 しかしマニエリスムは、やがて似た様な退屈な作品を多く出し、現在使われている言葉「マンネリ」の元になったそうです。
16世紀後半、そのマニエリスム時代の画家の一人として有名なのが、クレタ島出身のエル・グレコ(1541 - 1614)です。 岡山の文化人で、エル・グレコの名前を知らない人はいないでしょう、倉敷市の大原美術館に有名なエル・グレコの受胎告知があるからです。
オリンピックにフリースタイルとグレコローマンスタイルのレスリングの種目がありますが、 ここで言うグレコはギリシャ人、ローマンはローマ人のことです。 そして画家エル・グレコのグレコももちろんギリシャ人の意味で、エルは男性冠詞です。 そうなんです、エル・グレコはギリシャ人男性という名なのです。
英語で発音しにくい言葉に出くわすと、ギリシャ語みたいだとよく言います、何となく言いにくい言葉の代名詞のようになっているのがギリシャ語です。 エル・グレコの本名は、ドメニコス・セオトコポゥラス(Δομήνικος Θεοτοκόπουλος、ラテン文字転写:Doménikos Theotokópoulos)です。
どうしてエル・グレコが定着したか、何となくわかる気もします。 エル・グレコは、自分の絵のサインは本名でしていたそうです、当然ですよね、まさかギリシャ男性とは書けないでしょう。
1930年(昭和5年)倉敷に西洋美術館を設立した大原孫三郎(1880 - 1943)の地域社会への貢献、影響は大変大きなものでした。 国吉康雄の回顧展翻訳で紹介したニューヨークのメトロポリタン・ミュージアムの設立1929年と比べてみれば、いかに先進的かつ進歩的考えで文化を大切にしたかわかります。
その大原孫三郎と小島虎次郎(1881 - 1929)のエピソードは、良く知られていますが、一枚の絵画との出会いとは全くそんなものかなと感じさせられます。 人との出会い、本との出会い、ブログとの出会い、不思議と自然な巡り合わせのように思います。
本題に戻りましょう。
ルネサンスその後、バロック、ロココと続き近代へと移って行きます。
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文化はソフト的な思考とハード的な技術の両面が影響しあっていると思います、ルネサンス期の羅針盤、火薬、活版印刷など当時の新しいテクノロジーは、アート以上に人々の生活や考え方に大きな影響を与えたでしょう、文化・文明(Culture・Civilization)の大きな進歩です。
エル・グレコは、マンネリ化の語源になったマニエリスムの画家と紹介しました。 いくら熟成完成されたルネサンス芸術と言ってもマニュアル通りでは、当然つまらないものしか出来ませんからマニエリストのアーティストも色々工夫をしてマンネリ化の脱却をはかっています。
無理に不均衡な構図や遠近法にしたり、エル・グレコの「第五の封印」のように体を伸ばしたりねじれたようにデフォルメしたのです。 それ程顕著ではありませんが、後の抽象画的発想に近いものがあるような気がします。
エル・グレコの作品は、85%が宗教画で残り10%が肖像画だそうです、そして数少ない風景画が「トレドの風景」です。 この時代は、まだ風景や静物をテーマに描く事は、少なく珍しかったのだと思います。彼はルネサンス後期の画家でバロック芸術に影響を与えたと言われています。
現実には、年表の上に線を引くようにいきませんが、バロックの時代に入ると風景画、風俗画、静物画などが多く描かれ始めたのです。 ディエゴ・ベラスケスはスペイン絵画の黄金時代を、ルーベンス、レンブラント、フェルメールらはオランダ絵画の黄金時代を築きました。
バロック様式と聞くと何故かバッハを思い出しますが、フランスのヴェルサイユ宮殿はバロック建築の代表的一つです、バロックは分類上、歴史家が勝手に後から付けた名前です。
この時期には完成されたルネサンスを超えようとして、絵画の表現方法は光と影の使い方がより強烈に劇的になっていきます。 レンブラントを代表に当時多くの画家が光に特別な注意を払いドラマティックな絵を描いたのは、そういった背景があったように思われます。
そして17世紀以降、文化・芸術の中心はイタリアからフランスに移り、18世紀にルイ15世の頃、円熟した貴族文化を背景に軽快で享楽的なロココ様式が流行しました。 手のこんだ建築装飾がこの様式の代表的なスタイルです。
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各時代によってその時代のアーティスト達が、時代の変化と共に先人から学び先人を超えようとする様子が、絵画芸術の流れを見ていくとよく分かります。 それが進歩の形なのかもしれません。
近代絵画は、新古典主義、ロマン主義、バルビゾン派、写実自然主義、そして印象主義と社会、文化の流れと共に変化して行きます。 人々の意識の改革、進歩といってもよいかもしれません。
1527年のイタリアの略奪、16世紀の宗教革命と言った社会情勢は、絵画芸術にやはり影響を与えた時代の背景のように思われます。 1789年のフランス革命で貴族社会からナポレオンの軍事権力による政治経済の統治に移行していきます。 ロココの時代に少々やり過ぎたのでしょうか、それとも当時のポンペイ壁画発掘の影響もあったかもしれません、この頃にギリシャ・ローマの美術芸術を再評価しようと新古典主義が成立します。
やはりこの時代になって来ると絵画の画質が、かなり洗練されて来ているのが伺えます。 絵の具や筆の改良もあったのでしょう、そして精度の高い明確さを増した技法で、質の高い作品が多く描かれています。 ルネサンスを昔のカラーTVの画像とすると、新古典主義はまるでハイデフィニションTVの画質のようです。
ロマン主義(Romanticism)は、18C末から19C半に新古典主義の規律の強い堅さに対し角の取れた優しさを求めたのでしょうか、完璧で雑音のないディジタルCDに対してアナログLPの方が生の音に近くてよいと言う意見が、ディジタル音楽の出初めの頃よく耳にしましたが、それに似ているようです。 HD画像の新古典派の絵は、硬すぎて情緒がない、もう少しロマンのある絵の方が、夢があってよいと考えるアーティスツが出てきます。 絵画の変化は、一つの流れが一世を風靡(ふうび)すると、そのスタイルが飽きられると言うか、その反動の様な方向に動いていくのが伺えます。
ロマン派の絵画には、今までになかった個人の感情、そして夢や愛などの形のないものを表現したいという試みなどが見られ、新しく精神的なもの、感情的なものを表現しようと言う思いが伝わって来ます。 宗教的でなく自然に人の内面を表現し始めたことは、絵画の内容が濃くなって来たと言えるでしょう。 同じ絵画でも観ている人々の心に深く訴える力のある魅力的な作品が描かれるようになったと思います。
バルビゾン派(19C前半頃)は、ロマン主義の蔓延に対して起こったと言えるかもしれません。 フランスのフォンテーヌブローの森、その近くにあるバルビゾン村にアーティストが集まっていました。
1824年、ジョン・コンスタンブルのサロン・デ・パリの展覧会の影響で、バルビゾンに集まった若い画家達が、形式を捨て自然から直接インスピレーションを求めるようになりました。
国吉康雄達ニューヨークのアートステューデントリーグの仲間が、当時ウッドストックに集まったのにチョット似ているような感じもします。
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今回のレディーメードの記事のおかげで、キャスパー・フリードリッチに出会えたことは大変な収穫でした。 温故知新、故きを温ねて新しきを知ると言われますが、多くのアーティスツは彼の作品から学ぶ事は沢山あると思います。
ここまで絵画の流れを見てくると、もう次の動きが予測出来そうです。 フリードリッチの作品を例にしてみましょう、彼の風景画を見て、少し矛盾する表現ですが繊細でいて雄大、斬新でいてアカデミック、絵の中にドラマがありいつまでも見飽きない優れた作品です。 完璧で非の打ち所の無い絵の様に思われます、しかし描かれている事物がリアルではないと言う主張が出て来るのです。
メルヘン、寓話の世界と現実にある本物は違うのだと言う意見なのです。 美化理想化でなく自然体をあるがまま描写しようと言う動きが、ロマン主義的な作品が蔓延(まんえん)してくると出てきます、クールベの1855年「リアリスム館」で使われたことから、この絵画の流れをリアリズムと呼んでいます。
英語でリアル・ワーキング・ピープルと言えば、実際に毎日汗を出して働いている人、本当に存在する人を意味します。 今の日本では、リアルの意味を子供でも知っていますが、このリアルのリアリズムは何故か「写実主義」と訳されています。 前にアルタミラの「壁画」は、「天井画」にするべきだったと書きましたが、この「写実主義」は大変誤解を招きやすく不的確な言葉の使い方だと思います。
前に紹介した新古典主義の画家アングルの「王座のナポレオン」と写実主義のミレー、クールベの働く人々の絵を比べると、写実的に見えるのは新古典主義の絵で、それに比べてそれ程写実的に見えないのが写実主義の絵画です。 言葉の意味と目で見た感覚がずれてしまうので、理解出来なくなるのです。
何故なら、この写実という言葉自体が微妙だからです。 古来から絵を描く事自体が、写実だったからで、この限られた時期に限って写実主義と呼ぶのはかなり無理があるようです。 そもそも、誰がリアリズムを写実主義にしてしまったか知りませんが、ここではリアリズムはリアル主義にします。
エル・グレコの処で紹介しましたがリアル主義以前、最も多く描かれたのは宗教画で次に肖像画でした、やっと風景画や静物画が描かれ始めたのは新古典主義以降でした。
一枚の絵をプロデュースするには、絵の具やキャンヴァスの材料費と画家の人件費を出さないと出来ません、それが出来たのは宗教関係者、貴族、一部の金持ちと限られていました、その枠が広がって来た事はリアル主義の台頭と無関係とは言えないでしょう。
クールベの有名な「石割人夫」で最も注目する点は、テーマが労働者だと言うことでしょう。 リアル主義の作家達は、働く人々の中、日常の中に絵に描き込みたい美やテーマを見いだしたのでした。
自然のなかで無心に働く労働者の動きや形の美しさ、汗の匂いや砂埃のあるリアルさ、労働への賛美、そういった肌で感じる感覚を絵画で表現したと感じられます。
この時代のリアル主義の背景には、新しい技術の開発や新しい社会観念があります。 1840年頃に発明されたチューブ入り絵の具は、屋外での制作を可能にしました。 そして今ではあたり前ですが顔料の調合知識がなくて絵の具を作れなかった人でも絵が描けるようになるのです。 なかでも19世紀前半の写真の発明、そして急速な進歩は絵画芸術のみならず社会や文化にも大きな影響を与えました。
「国吉康雄回顧展カタログ翻訳」のフロクで紹介したドーミエが描いたナダールの空中写真の絵を覚えていますか? フォトチャンネルのコローやミレーの最後にあるアーティストの白黒写真はナダールが写したものです。 この時代の肖像画を職業にしていた画家達の危機感も感じられそうです。
パリのナダールのスタジオの写真を覚えていますか? あの建物で、最初の「印象派展」が開かれたと言われています。 この頃は文化も社会も大きく動いている時代でした。
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絵画は好みの問題でどうしても好き嫌いがありますね、でも印象派の画家の作品は日本人のみならず世界中で人気があります、なぜでしょう? それは印象派の画家が、人の心に通じる絵を描き始めたからです。 そのおかげで今まで頭で見ていた絵画が、ハートで感じられる絵になって来たのです。
この頃の画家は、今までの時代の作家達とは絵を描く観念が違います、わかりやすく言うと絵を描く理由と目的が違うので、自ずと制作された作品も違ってくるのです。 バルビゾン派、印象派の時代になると、印象派の作品を見て「ワァーいいなぁー」と感じてしまうあの感覚、素晴らしい景色を見て「ステキ」と感じる感覚を初めて絵画の中に描き込もうとしたのです。
絵画は、余り詳細に描きすぎるとイラストになってしまい絵としてはつまらないものに成るのです。 そんな細かい事を描くよりは、その場の雰囲気、ムードを描き込むことの方が重要ではないかと言う考え方です。
今風に言えば、イメージと言う言葉が近いかもしれません。 単に人の外観をただ描くのではなく、内面的なものが感じられるイメージを描き上げようと試みたのです。
自然の中にインスピレーションを求め存在感、実存感のあるリアル主義も自然主義もいいけれど、もっと大事なのは人の感情や印象で、それを重要視した方が絵画としてより意味深いものになると言う考え方が出てきます、印象主義です。
印象主義で絵画のテーマが目に見えない雰囲気や印象の表現に移った事、この点は意外と指摘されていませんが、画期的な事だったと思います。
絵画は長い間、目に見えるものや頭の中で考えたこと両方のイメージを描いてきました。
ロマン主義では、夢などの目に見えないものも描いています。 それ以前の宗教画も同様に、厳密に言えば画家の想像で描いていたので抽象画です。
ミケランジェロの「アダムの創造」も実際にあったかのように写実的に描かれていますが、厳密に言えば画家が頭の中で作り上げた抽象画です。 印象主義と宗教画の抽象は、目的も意味も違います。 宗教画の抽象は実際には無いものをあるように表現しようとしていますが、印象派の抽象的表現は実際に有る感情や印象を表現しようとしたことです。
誰もが感じる普遍的な美しさや驚き感動する心、水面に輝き踊る日の光、その印象や目に見えないけれど肌で感じる雰囲気を絵の中に入れて表現しょうとしたのです。 そして受けた印象を表現するのみならず、絵画によってみる人に新しい印象を与えようともし始めたのです。
では目に見えないものを、どの様にして表現しようとしたのでしょう?
これは今までにないことですから誰も方法は知りません、それぞれ試行錯誤を始めた訳です。 おかげで表現方法が自由になったので、発想や表現に既成の制約もきかなくなり、顔の中にブルーがあって、水面や空がブルーでなくても受け入れられるようになって来たのです。
全く新しいこのチャレンジの時期、混沌としていたこの期間が、印象主義の時代と言ってもよいでしょう。 ですから印象主義や時代を特定できる特別なスタイルはありません。 しいてあげれば、表現方法が自由になったので、絵が一般的に明るくなりました、そしてユニークなアングルと複雑になった構図かもしれません。
形や詳細よりも全体のイメージの持つ雰囲気の表現が重視され、時代の流れと相まって筆の使い方や動きがダイナミックで力強くなって来たのです。 色も明るくなりキャンヴァスの上に重く塗っていた技法からは考えられないほど薄くサァーと塗った技法も使われました。
処でアーティストは、駆け出しの頃、働き盛りの壮年期、そして熟年期、体力気力も弱くなった老年期と異なったステージがあります、それぞれの作品は、作風や完成度それぞれ違うでしょう、なのにアーティストを一つの時代や主義に当てはめてレーベルを付けようとすると例外が出てきて旨くいきません。
印象主義の後は、後期印象主義と呼ばれるのですが、余り主義の名前にこだわらないで、一応の目安程度でよいと思います。 このページに登場したアーティスツは、バルビゾン派、印象主義、後期印象主義、点描主義と区別しないで、アーティストの生年月日順にしました。
ジャコブ・カミーユ・ピサロ:Jacob Camille Pissarro, (1830年7月10日 - 1903年11月13日)
エドゥアール・マネ:Édouard Manet, (1832年1月23日 - 1883年4月30日)
エドガー・ドガ:Edgar Degas (1834年7月19日 - 1917年9月27日)
アルフレッド・シスレー:Alfred Sisley, (1839年10月30日 - 1899年1月29日)
ポール・セザンヌ:Paul Cézanne、(1839年1月19日 - 1906年10月22日)
クロード・モネ:Claude Monet, (1840年11月14日 - 1926年12月5日
ピエール=オーギュスト・ルノワール:Pierre-Auguste Renoir(1841年2月 - 1919年12月3日)
ウジェーヌ・アンリ・ポール・ゴーギャン:Eugène Henri Paul Gauguin (1848年 - 1903年)
ヴィンセント・ヴァン・ゴッホ:Vincent van Gogh、( 1853年3月30日 - 1890年7月29日)
ジョルジュ・スーラ:Georges Seurat 、(1859年12月2日 - 1891年3月29日
ポール・ヴィクトール・ジュール・シニャック:Paul Victor Jules Signac, (1863年- 1935年
そのうち印象を与える元の色をもっと純粋にしなければならないと考えた画家も出てきます。 点描主義(Pointillism)のスーラやシャニヤックです。 点描のテクニックを現在でも利用する作家は多いでしょう、誰が描いてもそこそこの面白い絵になるので受けるのかもしれません。
点描による独特の雰囲気を持つ絵は、一見魅力的ですが、残念ながら技法に拘(こだわ)りすぎと言うか頼りすぎの感があります。
現在のプリンターこそ究極の点描画でしょう。 まさかロイ・リヒテンシュタインのような作家が出て来るとはスーラも思いもよらなかったでしょうね。
その混迷の中で、色々の表現方法の試みがなされます。 キュービズム、フォービズム、シュールレアリズム、ダダイズムと新しい表現方法の試みとして色々なスタイルの絵画が出てきます。
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レディーメードの説明のために絵画芸術の歴史から始め、予定ではもっと大雑把に駆け抜けたかったのですが、一人でも多くのアーティストを載せたくて欲張ったので、まるで美術史のようです。
しかし私は、美術史の専門家ではありません、ただのアーティスト(芸術家)です。
どの様に書けば私の芸術論、美術史観が旨く伝わるか、どの様に説明すれば解りやすいかに重点を置きました。 勿論、長い文章になると誰も読まないし、余り絵画の知識がなく読んでも解ってくれるようにしたかったのです。
先回、印象派と後期印象派のように細かくわける必要はないと思うと書きましたが、美術史上では、やはり印象派、新印象派、後期印象派とあり、それぞれ技法(筆触分割、色彩分割)や色彩論や光学理論の違いなどが分類上あるようです。
詳しく絵画の歴史を知りたい方、アーティストの個人的な事情や作品の背景などに興味のある方は、今回の記事をリサーチしていて見つかったサイト「サルヴァスタイル美術館」、絵画の情報が詳しく記載されていますので参考にして下さい。
それでは本題にもどります。 印象派の時代、当時の背景をパリの万博をとおして追ってみましょう。
1851年のロンドン万国博覧会に対向して1855年にパリでナポレオン3世のもと、初めての国際展覧会が開かれ、ロンドンの水晶宮を上回るべく産業宮(Palais de l'Industrie)が建設されました。
1867年のパリ万国博覧会(Exposition Universelle de Paris 1867)は、日本が初めて参加した国際博覧会で、出展された浮世絵や工芸品が印象派の画家に大きな影響を与えたことは良く知られています。
三回目のパリ万博(Expo 1878)では、アメリカから電話機、蓄音機や自動車が出品され産業化の時代を予測している様でした。 また当時のパリのみならずヨーロッパでは、ジャポニスム(Japonisme)が、工芸品やポスターなど印象派後のアール・ヌーボーの作品にも影響したのがみえます。
フランス革命(バスティーユ襲撃)100周年の1889年(明治22年)に四回目のパリ万博(Expo 1889)が、開かれました。 この時に有名なエッフェル塔が建設され、短い距離ですが鉄道も実用化されます。
そして五回目、1900年のパリ万博, (Expo 1900)では、エッフェル塔にエレベーターが設置されました。 このおかげでニューヨークの摩天楼の建設も実用的になるのです。 丁度、ロンドンへ留学途上の夏目漱石が、会場に立ち寄っています。
この頃には産業の発達で交通機関の進歩と共に人の移動が増し、世界が小さくなり始めた時代です。
花の都、芸術の都パリへ、多くのアーティスト達が集まったのです。
美術芸術の大きな流れは、19世紀末のアール・ヌーボーから第一次世界大戦、そしてアート・デコーの動きになります。 細かく見ればフォーヴィズム、表現主義、キュビズム、抽象芸術、構成主義、バウハウス、ダダ、シュールレアリズムなどで過渡期の混迷した状況が感じられます。
当時活躍したアーティストは、勿論印象派以外にも多くいます。 先回と同様に、このページで紹介したアーティストは生まれた順にしました、選んだ作品の制作年代は前後しています。
オディロン・ルドン:Odilon Redon, 1840年4月20日- 1916年7月6日
ジョヴァンニ・セガンティーニ:Giovanni Segantini、(1858年1月15日 - 1899年9月28日)
アルフォンス・マリア・ミュシャ:Alfons Maria Mucha, (1860年7月24日 - 1939年7月14日)
グスタフ・クリムト:Gustav Klimt, (1862年7月14日 - 1918年2月6日)
エドヴァルド・ムンク:Edvard Munch, (1863年12月12日 - 1944年1月23日)
トゥルーズ=ロートレック:Henri de Toulouse-Lautrec(1864年11月24日 - 1901年9月9日)
オーブリー・ビアズリー:Aubrey Vincent Beardsley, (1872年8月21日 - 1898年3月16日)
絵画の流れが世紀末の時期をへて20世紀初頭へと移っていきます。 いよいよバイセクル・ウィールが制作された1913年(大正2年)に近づいて来ました。
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前回は、当時11年ごとに開かれたパリ万博を追って技術や産業の発展と社会への影響をみてきました。 技術革新のおかげで食料生産が飛躍的に伸び、人口増加につながります。 そして労働者階級、中流階級の成長で消費社会の定着がありました。
今回は同時期の美術芸術の流れの概要をみてみましょう。 19世紀末から20世紀初頭の文化、芸術は、仏でアール・ヌーボー(Art Nouveru)、英でアーツ・アンド・クラフト(Art & Crafts)、独でユーゲント・シュティール(Jugendstil)と言った動きがありました。
アール・ヌーボーは、日本語で表すと「新出芸術」と言った感じでしょうか、従来の様式を離れ新しく出てきた芸術の流れで、建造物、工業品やポスターなどのデザインに活用されました。 植物的な曲線を多用した装飾で、よく知られています。
アール・ヌーボーの動きで重要な点は、鉄やガラスを使った工芸品が新しく制作され、芸術の一般化が始まったことだと思います。 つまりガラス製の花瓶や家具、調度品,そして壁紙などの中に芸術が加味されたのです。
ヨーロッパを中心にアール・ヌーボーの動きが大勢を占めると、今まで見てきた絵画の歴史と同様、飽きられて新しい動きが出てきます。 自由曲線の過剰な装飾を抑えたアート・デコー(Art Deco)の登場です。 生産技術の進歩で自然の造形美から機能を重視した人口の造形美が加わったのです。
アート・デコーは、1910年代半ばから30年代にかけて、モダン・デザインの出現によって出来た、新しいデコレーション・スタイルの美術工芸の動きになりました。 アール・ヌーボーの反動で簡素化が進み幾何学的模様や機能を生かしたデザインに移っていきます。 そして美術工芸の大衆化、商業、工業デザインの普及です。
1925年に開かれたパリ万国装飾美術博覧会、(Exposition Internationale des Arts Decoratifs et Industriels modernes)は、アール・デコ博とも呼ばれ、アート・デコーの名前の元になりました。
しかしアート・デコーの流れの中心は、産業の発展と共にパリからニューヨークに移るのです。
量産された工芸品は、新しい芸術品として当時の先進国の都市で同時に大量に消費され始めるのです。
そういった中、絵画美術の動きは、印象主義以来古い考え方や規制から解放され、新しい観念の模索、変化で混迷の過渡期を迎えていました。 社会の変化と共に変わっていく、20世紀初頭の近代美術(Modern Art)の流れをみてみましょう。
印象派の色使いや点描画の色彩で、色の使い方がそれぞれ工夫されてきましたが、もっとより自由に感情を表現するために色を使おうと言う考えが出てきました、フォーヴィズム(Fauvisme)です。
フォーヴィズムは野獣主義と訳されていますが、自然に見える色だけでは満足出来ず、アーティストが自由に自分の色を使い始め、今までにない強烈な色の対比から強い印象の感情豊かな絵画を描いたと言えるでしょう。 この鮮烈な色使い、まさに野獣のような激しさと力強さが特徴です。
一連の色彩の開放に続いて形態の解放の動きが出てきます。 ピカソやブラックが始めたと言われるキュービズム(Cubism)です。 今までの遠近法や透視図法にこだわらず、また多角的視点からのイメージを組み合わせて平面のキャンヴァス上により立体的感覚を描こうとしたのです。
同じ頃にカンディンスキーやモンドリアン等が始めた抽象絵画の動きも見逃せません。
こう言った新しい美術的観念の模索が続き、シュールレアリスム、そしてダダイズムと現代美術(Contemporary Art)の流れは動いて行きます。
1
アンリ・ルソー:Henri Julien Félix Rousseau, (1844年5月21日 - 1910年9月2日)
2
ワシリー・カンディンスキー:Wassily Kandinsky、(1866年12月4日- 1944年12月13日)露
3
アンリ・マティス:Henri Matisse, (1869年12月31日 - 1954年11月3日)仏
4
ジョルジュ・ルオー:Georges Rouault, (1871年5月27日 - 1958年2月13日)
5
ピエト・モンドリアン:Piet Mondrian、( 1872年3月7日 - 1944年2月1日)
6
フランシス・ピカビア:Francis-Marie Martinez Picabia, (1879年1月22日 - 1953年11月30日)
7
パウル・クレー:Paul Klee、(1879年12月18日 - 1940年6月29日)スイス
8
アンドレ・ドラン:Andre Derain, (1880年6月10日 - 1954年9月8日)仏
9
フェルナン・レジェ:Fernand Léger、(1881年2月4日-1955年8月17日)
10
パブロ・ピカソ:Pablo Picasso、(1881年10月25日 - 1973年4月8日)スペイン
11
ジョルジュ・ブラック:Georges Braque, (1882年5月13日 - 1963年8月31日)仏
12
モーリス・ユトリロ:Maurice Utrillo, (1883年12月26日 - 1955年11月5日)
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さあ、このレディーメードの持つ新しい芸術的観念とは、いったいどんなものなのでしょう?
ここでは、バイセクル・ウィールが制作された年、1913年の2月17日から3月15日までニューヨークで開かれた「国際現代美術展」(The International Exhibition of Modern Art)から始めましょう。 この大展覧会は別名、アーモリー・ショウ(Armory Show)としてもよく知られています。
ニューヨークとシカゴで開かれたこの展覧会は、歴史に残る大イベントとなり、当時のアメリカ美術界のみならず広く一般社会にも大きな影響を与えました。 そしてアメリカ芸術のモダニズムへの動きに大きな後押しとなったのでした。
マルセル・デュシャン、(階段を降りる裸婦像No.2): Nude Descending a Staircase, No. 2, (1912). Oil on canvas. 57 7/8" x 35 1/8". Philadelphia Museum of Art.
この展覧会にデュシャンが出品したのが、1912年に制作した「階段を降りる裸婦像No.2」でした。 この作品はアーモリー・ショウで最も話題になった作品になりました。 連続写真のイメージが連想される作品で、明らかに動きを絵画の中に取り入れようとしています、その表現方法は、フォーヴィズムでもキュービズムでもありませんでした。 もう一つ重要な点は、動きを取り入れたことで時間の流れまでも絵画の中に加えられた事でしょう。
マルセル・デュシャン,(ファウンティン): Alfred Stieglitz, Fountain, photograph of sculpture by Marcel Duchamp, 1917. (photo courtesy of: arthistory.about.com)
1917年のインディペンダント展で、レディーメーズの問題作である「ファウンティン」(Fountain,日本語では「泉」)を出品します。 この作品は展示されることなく唯一アルフレッド・スティグリッツが写した写真が残っているだけです。 しかしこの作品は、多くの複製が制作されています。
陶磁器の持つスベスベした地肌、ポーセレン(porcelain)の持つ光沢のある表面と便器の機能から来る局面や形態自体の芸術性をデュシャンは、みる人の前に作り出したのです。 そして置く位置を変えることによって新しい視点、つまり新しい認識を促したのです。 利休さんの「はてな」の茶碗より分かりやすいかもしれません。
「泉」は、よく20世紀の美術界に最も影響を与えた作品の一つと言われたりします。
アートは、アーティストが手で制作したものであるという既成概念に対して、そのものの持つ固有の美を認識して指摘するだけでアート(芸術)を制作したことになると言うアイデアです。 これによりデュシャンは、絵画芸術の枠を外しアートに対しての新しい考え方を開いたのです。 このことがレディーメードの持つ新しい芸術的観念は何かの答えとなるでしょう。
マルセル・デュシャン:L.H.O.O.Q. 1919 Rectified readymade: pencil on reproduction of da Vinci's Mona Lisa (19.7 x 12.4 cm) Private collection(photo courtesy of: arthistory.about.com)
1919年、複製のモナリサに髭を付けて「L.H.O.O.Q.」と名付け、いたずらっぽく意図的に当時としては不謹慎な作品を制作しています。 私はフランス語が解らないので引用します、タイトルを続けて読むと、「彼女の尻は熱い (Elle a chaud au cul、彼女は性的に興奮している)と同じ発音(エラショオキュー)になる」そうですが、パン(pun)の好きなデュシャンらしいタイトルです。
後にアメリカ・ダダの指導的役割を果たすことになったデュシャンは、ユーモアをも現代芸術の一部として取り込もうとしていたようです。 印象派のアーティスト達が感情を表現しようとしましたが、ユーモアまでは考えていなかったでしょう。 デュシャンは、ブラック・ユーモアにも言及しています。
マルセル・デュシャン、(パリの空気50cc)、: reproduction of 50 c.c. of Paris Air (1919), in Boîte-en-Valise 1935-41 (photo courtesy of: www.toutfait.com)
ユニークな形のガラス容器、雨粒にも似た魅力的な形と機能美の立体曲面、この中に閉じ込められているのは、パリの空気です。 それがどうしたとお考えの方も多いかと思いますが、目に見えない空気が、芸術作品の素材の一部として意識的に使われたのは、この作品が初めての事だったのです。
デュシャンは、パリの空気まで芸術にしてしまったのです。
この作品の元は、彼がアトリエ近くの薬局で見つけたアンプルで、今から約100年前に制作されたレディーメードの一つです。 彼は、この作品をアメリカにいる友人の為に作ったと語っています。 何と素晴らしいギフトでしょう。 余談ですが、人が一番幸せに感じるときは、誰かのことを想っている時だそうです。
マルセル・デュシャン、「彼女の独身者たちによって裸にされた花嫁、さえも」:The Bride Stripped Bare by Her Bachelors, Even (The Large Glass) / La mariée mise à nue par ses célibataires, même (Le Grand Verre) 1915-1923、277.5 x 175.8 cm overall, Philadelphia Museum of Art。
「ラージグラス」は、マルセル・デュシャンの代表作とされています。 この作品に関しては、多くの書物や解説があります。 しかし余り指摘されていませんが、デュシャンはこの作品に関してバックグラウンドについて語っています。 みなさんは、この作品の背景をどう思いますか? 私は大変気に入っています。
1914年(大正3年)7月28日から1918年11月11日までの、第一次世界大戦の影響で、パリでは美術や芸術どころではありませんでした。 デュシャンは1915年にニューヨークに移ります。 その後もデュシャンの関心は動く物やその形に関して続いていました。
これ以外にも立体作品をいろいろ制作しています。 エロティシズムに満ちたものから不思議な感覚のものもあり、いろいろと考えさせられる作品が多いのも彼のアートの特長かもしれません。
マルセル・デュシャン:Female Fig Leaf (Feuille de vigne femelle)、1950, cast 1961
絵画芸術は、手で作り上げたもの、手で触れることが出来るものと言った意識があったのですが、デュシャンのバイセクル・ウィールを始めとする一連のレディーメードの作品によって、アート自体が目に見えなく、手に触れない観念であると言う考えを新しく開いていったことは大変有意義な事だったのです。
マルセル・デュシャン: Objet-dard (Dart-Object) 1951, cast 1962 Bronze object: 78 x 197 x 90 mm sculpture (photo courtesy of: www.tate.org.uk)
このことで絵画芸術の今まであった枠や規制がなくなり、全く新しいアイデアも受け入れられ絵画芸術の意識の上で飛躍的進歩につながったのです。
マルセル・デュシャン(フレッシュ・ウインドウ):Fresh Widow 1920, replica 1964 Mixed media object: 789 x 532 x 99 mm sculpture (photo courtesy of: www.tate.org.uk)
デュシャンは、今までにあった常識から一歩踏み込んで誰よりも深く絵画芸術を考えたアーティストと言えるかもしれません。
マルセル・デュシャン:Marcel Duchamp, (1887年7月28日 - 1968年10月2日)
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